紅茶の歴史
紅茶の歴史についてまとめてみました。
紅茶はイギリスの文化だと思われている人は多いと思います。でもその歴史を見ると、ヨーロッパの交易と国家権威がその文化繁栄の背景になっていることがよくわかります。世界史が苦手な人にも分かりやすく書いてみました。
紅茶の誕生
紅茶の木はツバキ科の常緑樹で、葉から作り出されるお茶の原種は中国・雲南省、チベット、ミャンマーの山岳地帯に自生していたといわれています。
お茶は中国では古くから不老長寿の妙薬として、栄養のある食材として、リラックスやコミュニケーションの手段として飲用されていました。
中国、日本から伝わったお茶文化
17世紀、中国や日本を訪れたヨーロッパの人々は、「お茶」という飲み物を知りました。
当時、お茶を作ることができたのは中国と日本だけでした。東洋貿易で先んじていたポルトガルには英国に先んじてお茶を飲む習慣が広がりました。当時の東洋人は、陶磁器、銀製品、絹織物、漆製品、お茶、どれをとっても当時のヨーロッパ人にはまねのできないものを生み出していたのです。
ヨーロッパにおけるお茶の流行と大衆化
1498年にポルトガル人 バスコ・ダ・ガマによって、南アフリカの南端、喜望峰を回ってインドへの航路が発見されると、ポルトガルやスペインは東洋に船団を送り込みました。結果、キリスト教の布教、アジアのスパイスや絹などの特産品がヨーロッパにもたらされるようになりました。
東洋貿易を手掛けたポルトガルの宮廷では、1600年頃には既にお茶をたしなむ習慣が定着していました。一方、英国においては1661年に王政復古が実現し、英国王チャールズ2世が王位に就き、ポルトガル皇女のキャサリン・オブ・ブラガンサが王妃として迎えられました。
キャサリン皇女は、お嫁入道具の一部に大量の緑茶と茶道具、そして当時大変高価だった砂糖を携えていました。当時とても貴重な中国からの茶の喫茶の習慣が、英国の宮廷に広がったのです。
18世紀になり、お茶を競って輸入し始めたヨーロッパの国々ですが、中でも英国は独特の「紅茶文化」を築き上げました。
続いて1698年に王位に就いたメアリー女王(Queen Mary)も茶を愛し、翌年より開始した中国・広東との直接交易で英国内の中国趣味(シノワズリー)は最盛期を迎えました。
紅茶のステータスシンボル化
お茶道具はステータスシンボルとして多くの肖像画に描かれることとなりました。肖像画にさりげなくお茶のテーブルやお茶道具を描くことで自分たちがいかに洗練され、いかに財力と社会的地位があったかを表現することができました。
英国ではお茶の輸入が始まった初期からお茶には高い税金がかけられました。450gのお茶の値段が大きなお屋敷のバトラーの給料の1年分と同額だったという話があるくらいです。
当時、英国では清教徒革命が起こり、英国史上たった一度、国王が処刑された時代です。そのため貴族たちは人の見えないところでお金を使ったといわれ、喫茶と喫煙がこの時代に英国で定着したといわれています。
お茶を飲む人が増えていくと、需要に供給が追い付かなくなりました。イギリス東インド会社に与えられたお茶貿易独占権があり、競争のないマーケットにおいてお茶は手に入れにくい高価な飲み物でした。
そこで英国に比べて、税率の高くなかったフランスとオランダから密輸が横行し、凄惨な事件も起きました。
1700年後半にはチェルシーに窯業が起こり、イギリス国産の陶磁器の大量生産が始まりました。このお陰でティーポットを中心とした国産の茶器道具が家庭でも揃えられるようになりました。
紅茶をめぐる国際事件
ボストン茶会事件
1773年、イギリス植民地のアメリカでは有名な「ボストン茶会事件」が起こりました。ボストン港に茶箱を満載して入港した東インド会社の用船に、イギリス帝国議会を通過した不公平な税制「茶条例」に反対する市民の一団が乗り込んだのです。
次々と勝手に積み荷の茶箱を壊して海に投げ込み、「ボストンの港をティーポットにしてしまおう」「ジョージ3世のティーパーティーだ」と叫んだのです。この反英行動が次第に各地に拡大し、ついにアメリカの独立戦争にまで発展していきました。
アヘン戦争
1834年、中国茶の輸入自由化により茶の消費量はますます増大しました。中国への茶の支払いのために英国から対価の銀の量が膨大になっていったのです。
そこで英国が目をつけたのがインドで栽培したケシから作られるアヘンを中国(当時は清王朝)に持ち込み、強制的に売りつけました。アヘンの蔓延化を食い止めようとした清王朝は、広東に大使を派遣してアヘンを焼却したり、海へ投棄しました。これをきっかけにイギリスと清との間にアヘン戦争が勃発。結果、イギリスの勝利に終わったのです。
英国における紅茶文化の繁栄
英国紅茶文化の完成期
1851年、「ロンドン大博覧会」の成功で、世界中の富と関心がますます英国に集まりました。まさに「繁栄と栄光のヴィクトリア時代」です。
世界の大国になった英国は、中国からの茶の輸入に頼らず、自国の植民地の紅茶開発を試み、インド・アッサムでの生産に成功。さらにスリランカ(セイロン)で生産された紅茶はミルクと砂糖を加えて飲むイングリッシュ・ティーにふさわしいものとなりました。
英国内への紅茶の供給が増え、ヴィクトリア女王(在位:1837-1901)は、「アルコールを控えてお茶を飲もう」というキャンペーンを行いました。1870年頃には英国内の一般労働者の所得も増え、紅茶の需要が増大したことで、紅茶は「英国の国民的飲料」になりました。
一方、1840年に流行した「アフタヌーンティー」の習慣は、1900年前半にかけてすべての階級の英国人のライフスタイルの中に定着しました。
このように、王侯貴族から始まった喫茶の習慣は、長い年月をかけて一般庶民にまで広がり、朝の目覚めから夜まで紅茶は英国人の暮らしにはなくてはならない生活文化として浸透したのです。
まとめ
- お茶は中国、日本にて古くから茶器を含めた文化の発展が続いてきた
- 中世になって中国や日本のお茶が、欧州との交易により広められた
- お茶文化が欧州でステータス化される中、英国は、大航海時代に自国の植民地を増やし、中国に加えて植民地での紅茶栽培を広げた結果、様々なお茶を自国に供給できるようになった
- 英国の国家繁栄を背景に、紅茶文化は王侯貴族だけの習慣から一般庶民の生活まで浸透した
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